昨日まで会津に滞在していました。
26日の会津柳津での花ホテル講演会、28日の会津若松市のモーモー鈴吉での情報発信講座、30日の「地域女性の働き方の未来 in 会津」参加と、会津での日程をこなし、30日は台風が来る前に東京に帰って来ました。
26日は花ホテル滝のやさんに宿泊し、残りの3日間は実家に滞在しました。
実家は弟の代になっていますが、弟嫁も、思ったより自然な存在で、むしろ、今のほうが実家は居心地がいいです。だからって頼りっきりになるわけにはいきませんが。
弟と地方創生会議について話しました
今回の滞在の目的の1つは、私の長弟であり、喜多方市塩川町の古川石材店4代目社長である一裕と話をすることでした。彼は地元の活動もいろいろやっているようなので・・・。
<地方創生会議について>
和歌山県の24歳の若者が主催している、地方創生会議というイベントがあります。
全国の地域を良くしたいと考え行動している人々や、政治家、IT社長などを巻き込んで高野山で開催されています。
これを会津に持ってきたいと考えています。
そして、この会議はライセンスが無料なので、誘致の前に、アピールを兼ねて、小さな地方創生会議をできないものかというのが今の段階です。
養蚕で栄えた喜多方市
地方創生会議の話などもありつつ、一昨年、免許を失効した私は、弟の車に乗せてもらって移動したりと、弟と話す機会がいろいろありました。
たまたま私が、喜多方市内を散策中、古川石材店創業者の栄太郎さんが仕事をさせて頂いていた神社にたどり着いたことから、初代栄太郎さんのこと、当時の喜多方市のことなどに話が広がりました。
なんでも、喜多方市は、養蚕で栄えていたそうです。
今でも「蔵の街 喜多方」というキャッチフレーズがありますし、40代で蔵を建てられないのは男の恥とまでされたそうなので、それだけ、当時は豊かな状況があったのでしょう。
今、ネットで調べたところ、江戸時代のはじめにはすでに京都に生糸を販売しており、昭和初期まで養蚕が喜多方市の一大産業だったようです。
喜多方市と会津若松市の中間地点の塩川町も栄えていたそうです
そんな喜多方市と会津若松市の中間地点の塩川町で、古川石材店は創業しました。(塩川町は、平成の大合併で喜多方市に吸収合併されたので、今は喜多方市の一部です。)
創業した頃は、塩川町も北前船の船着き場として栄えていたようです。
今はただのベッドタウンのような町ですが、私が子供の頃は、まだ、当時芸者として活躍された女性たちが小料理店などを営んでいらっしゃいました。以前は置屋もいくつかあったようです。
小中学生の踊りの指導などをしていた記憶がありますし、差別されるのではなく、見識のある存在として、頼りにされていたような気がします。
塩川町で明治時代に一代で財を築いた古川石材店創業者栄太郎
そんな塩川町に初代栄太郎さんは生まれました。長男でなく、田んぼがもらえなかったということで、会津若松市の石材店で修行し、明治時代44年に起業したそうです。
なんでも、会津滞在中に弟からきいた話によると、初代栄太郎さんは、石材店の仕事をするだけでなく、お花を活けたり、屏風に書を書いたりという風流なことにも精通していたようです。
農家に生まれた栄太郎さんが、そこまでになれるほどの文化や教養が、会津地方にはあったということで、つまり、そういう人々が、当時の会津には少なからずいたそうです。
会津というと、竹下夢二の足跡があることで今は観光PRにも使われていますが、会津に夢二のパトロンがいたということのようで、当時の繁栄ぶりが伺えます。
突出した天才がいた家系の苦悩
初代栄太郎さんの恩恵をうけて、子孫である私達も生きておりますが、天才がいた家というのは、その影響が4代目の今でもありますよね、ということも弟との話題になりました。
うちだけでなく、明治時代に興った家で、今でも続いているところは、同じようなことがあるのではないでしょうか。
明治維新というチャンスを掴んだ人たちが全国にいた?
明治維新の時代の会津というと、どうしても、戊辰戦争は避けて通れない話題ですし、大河ドラマで、白虎隊、八重の桜と、2度モチーフになったこともあり、会津には武家の印象が強いのではないでしょうか。
しかし、実のところ、会津は商人で栄えたところなのかもしれません。
お城以外で会津若松市の観光スポットになっているところの中には、海産問屋として財を成した渋川問屋だったり、今回、「地域女性の働き方の未来 in 会津」の会場にもなった福西本店であったりと、豪商のお屋敷も目立ちます。
そして、豪商たちがパトロンとなって、私の家の初代栄太郎さんであったり、明治以降の流れで頭角を表した人たちを育てる文化もあったようです。
初代栄太郎さんも、塩川町に今も残る商家からお金を借りることで事業を拡大したそうです。
明治時代のベンチャー企業
日本酒の蔵というと、300年の歴史があるところも、もちろんありますが、意外と、100年前後の歴史の酒蔵が目立つ気がします。
それだけ、江戸時代が終わって、新しい時代に、日本酒の需要が増えたということだろうし、2000年代のITバブルのような雰囲気があったのだろうかと思います。
これは想像ですが、明治維新で、私の先祖のような新興勢力が、チャンスを掴みすぎたのが、不都合な人たちがいて、戦後は、地方はバラマキ財政で生殺しにされて、そういう新興勢力が出てこないようになっているんだろうか、なんて、想像をたくましく働かせてしまいます。
会津の明治維新といえば・・・
そして、今回の滞在中に、会津の明治維新といえばの、長州とのわだかまりが昇華される、1つの瞬間に立ち会ったような、そんな出来事がありました。
それは、地域女性の働き方の未来 in 会津というイベントのことなのですが、これはまだ、自分の中で消化しきれていない、なにか会津に生まれた一人の女性としての私にとって大きなインパクトがあったので、あとでブログを書こうと思います。
男性たちが、それぞれに引くに引けない思いで起こした争いの全てを、女性の懐の広さで包み込むとでもいうのか、なんていうか、そんなイベントの最後の部分に参加させていただきました。
戊辰戦争では、喜多方のほうも被害を受けたけど、明治時代後半にはだいぶ立ち直っていた会津の基礎体力
そもそもの話として、東京で「福島県の会津出身です。」というと、「ああ、会津若松市ですね。」というふうに言われることが割と多いです。
でも、会津とは、福島県の半分近くの面積の広大な地域のことで、この地域に住んでいる人は、みんな、会津人としての誇りを持っています。
そして、戊辰戦争では、会津若松市だけでなく、私の地元の塩川町や喜多方市もかなり影響を受けたようです。
それにもかかわらず、会津を出たことはないはずの、明治生まれの初代栄太郎さんは、お花や書といった、教養を身に着けているわけですよね。
なんとなく、血のイメージしかない、明治維新から第二次大戦までの時期に、本当はどんな豊かな日本があったのでしょうか。
海の道、古代道路、高速道路、鉄道、そして情報の道
今は会津地方もそんなに景気がよくはなさそうですが、会津以外にも、明治維新でチャンスを掴んで、栄えた地域があって、そして今は虫の息、ということがあるのではないでしょうか。
地方創生会議は、地方創生のプラットフォームになるということを掲げています。
この駅を使って、情報の道路を作れば、会津、福島だけでなく、全国の、今は眠った状態の、それぞれの地域が、息を吹き返すことができるのではないだろうかと、そういうことが出来ればと思います。